2009年7月 8日 (水)

七夕と満月

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昨日は七夕。

天気予報が外れて晴れたので、外で原稿を書きたくなって、年間パスポートを持っている六義園へ。

すると、飾り付けされた笹が何本も並んでいた。

「○○ちゃんとたくさん遊べますように・・・」
「クロールで50㍍泳げるようになりますように・・・」

短冊はこどもたちが書いたようで、七色の紙が風でヒラヒラと翻る様は、やっぱいいもん。

短冊を掛ける笹や竹は、正月に飾る角松のように、もともと神が降り立つ拠り所とされてきた神聖な植物。今は短冊になっているけれど、古来は、五色の糸を垂らしていただけだったとか。「願いの糸」と言われて、糸に手を触れて願い事をすると3年以内に願い事が叶うと言われていた。それが、江戸時代のころから短冊に和歌などを書くようになって、今の形になった。

今、伝統って頑なに「変わっちゃダメ!」という意識が強いけれど、どれも時代に応じて変わるのが常だった。まあ、そこにも「変わらない」パワーと「変わる」パワーのせめぎ合いはあったんだろうけど。んでも、こういう民間信仰のようなものって、もっとユルユルでおおらかだったんだろうな・・・。

なんて思いながら閉園ギリギリまで執筆に勤しみ、夜になると、空にはおぼろながらに、大きな月が登っていた。

しかも、満月!

空が多くて天の川は見えなかったけど、こんな日は外で寝たいくらい、なんかなんかがあちこちに満ちている。

こどもの頃は、まん丸い月を見ると、自然に涙が出ていた。
悲しくもないし、きれいではあるけれど、感動とも違う・・・。

満月は大潮だから、体内の水分も溢れだしちゃうんだろうか?

今じゃ、涙は出なくなったけれど(じっと見るとヤバイかも)、満月の夜に、空に突き出した岩山のてっぺんで、月を眺めながら寝るのは、今でもひとつの夢だす。

そしたら、また、泣くかな?

喜びも痛みも、なにも伴わない、涙。

どうにも説明がつかない。
けど、感覚として、揺るぎなく残っている感覚。

次の満月は8月6日。

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2009年6月26日 (金)

『おぼん ふるさとへ帰る夏』(たくさんのふしぎ8月号)完成!



2年前から構想していた絵本が、遂に完成!

題名は『おぼん ふるさとへ帰る夏』。

俺自身が小学校4年生のときにひとりで親の田舎へ帰り、ひと夏を過ごしたときのお話。
かなりの濃度で個人体験満載です。
ひとり旅のドキドキから、麗しのじいちゃんばあちゃん、そして親せきのみんなとお墓にいるご先祖様・・・血で繋がる現在過去未来・・・見えるものから見えないものまで、いろいろ感じてもらえたらうれしいな。

出版元は、前回と同じ福音館書店の月刊絵本「たくさんのふしぎ」さん。魂の編集者H氏に尻を叩かれながら、なんとか7月1日の発売に間に合いました(感謝です!)。

福音館書店「たくさんのふしぎ」『おぼん ふるさとへ帰る夏』HP

月刊誌だけど、舞台になった旧盆は8月なので、8月に入っても本屋さんの店頭に置いていてくれるとありがたいのだけどなぁ。もちろん、その後もバックナンバーで購入は可能です。

アートディレクションは、坂川栄治さん。
文字の置き場所や色の再生まで、打ち合わせに一度同席させてもらったけど、デザインっていうNEW WORLDの一端を垣間見せてもらい、その細やかさと奥深さに舌を巻きました。
文字の色をちょっと違えただけで印象がかなり違ってくる驚き。
表紙の「おぼん」の赤がとても鮮やかで前に出てくる感じが好きです。
ありがたや。



こどもたち、

それから、オレと同じ40歳前後の人は、これをどう見るのか?つまりは、読者対象の小学校高学年生の親くらいの人たち。

そして、

年配の人たち、

いろんな意見を聞いてみたいものです。

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2009年6月21日 (日)

緑まみれ空まみれ@明治神宮



昨日は即行戻しリクエストの校了をクリヤーしてから明治神宮へ行ってきた。

と言ってもお参りではない。

神宮内にある宝物殿前が広い芝生になっていて、結構な緑まみれの隠れスポット。百均のレジャーシートに寝っ転がって、風に揺れる小枝や空の変化(へんげ)に見惚れて夕方まで。。。。

そういえば、同じ神宮内にある御苑は花菖蒲の名所。16日現在で5,953輪開花しているという(数えたのかな・汗?)。

行かねば。

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2009年6月 7日 (日)

父なる太陽と母なる大地から切り離された野菜くんたちって、野菜くんと呼べるのだろうか?

最近、「植物工場」とか「野菜工場」という言葉をよく耳にする。巨大な敷地を持つ工場で、土は日光を使わず、LEDなどによる人工光と養液で栽培するもので、密室のため無菌に近く、農薬を使わなくてすみ、とめどなく生産できるため、よく例えられるリーフレタスでは、年に20回は収穫できるという(施設によっては、日光も取り入れている所もあるよう)。

工場だから、ひとつの敷地でも、階数を増せば、そのまま収穫量も増す。

無農薬で、高収穫の安定供給。

を第一に唱っているが、本当にそれって素敵なことなのだろうか?

お日様の光を浴びていない。。。。
食物連鎖の果ての果てにいる微生物君ががんばって生きている土で、植物のむき出し臓器をくるんで(根のことです)、そっから水や栄養を汲み上げてスクスク育っていないって。。。。。

工場で生産される野菜は、まだ、限られているようで、リーフレタスやトマト、イチゴ、一部のハーブくらいだそうだ。リーフレタスはよく例にあげられるんだけど、これは、他の野菜に比べて日光量が少なくても育ちやすいものらしい。実際、人工光は、日光に比べれば何十分の一の光量しかない。必要最低限の光で栽培され、リーフレタスの場合の栄養価は露地物の7割程度。20毛作が可能といっても、それはビニールハウス栽培でも近い回数の収穫は不可能ではないという見解もある。

和歌山にいたとき、近所のおじいちゃんおばあちゃんが、猿や猪の襲来と闘いながら手塩にかけて育てた露地栽培の野菜はどれもこれも濃厚な味に溢れていて、文句なく美味かった。

やっぱり、なりばかり立派でも、中身がなきゃ、元気じゃなきゃ、本当のおいしさって出来ないと思う。それには、お天道様と土壌様は欠かせませんでしょう。

確かに農業はホワイトカラーからすれば、キツイ。
でも、エコだ自然保護だと叫ばれている最近では、若い人の農業に対する興味だけは少なくとも高くなってきていると思う。たしか、雑誌のブルータスだかなんかでも、農業特集をしていたほどだ(雑誌名は不確かだけど、そんな男性雑誌でも取り上げられていたってこと)。

それに、従来のNo雑草できれいな畑でなきゃいけないという、半端なく手にかかる農業ばかりでなく、その野菜の特徴を活かして、最小のスペースで雑草とかも含めた、いろんな自然界の植生の中ですくすく育てるパーマカルチャーなんてものも普及してきている。
個人的には、庭先に花を植えるように、いろんな野菜を好きなように配置して植えるベジタブルガーデンなんていいなって思う。自家消費する分には十分でしょう。

海外向けに、この日本の野菜工場を記事にしたネット記事などを見ると、コメントには、「カッコイイ!」とか「期待できる」って言葉が結構あるのも「ほんとかねー」と思ってしまう。

日焼けサロンで点滴して育ってプロテインでマッチョになった男って魅力っすかね。

オレは、サプリなんか飲まないで、露地物食べまくってビーチでこんがり焼けた元気な女の子の方がステキだと思います。

野菜も然りでしょ。
でも、カゴメは和歌山に大きなトマトの野菜工場持ってたりするし、知らないうちにもう食べていたりするのかな。。。。。

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2009年5月31日 (日)

ウホウホ!

昨日の夕方、近所の川沿いを散歩していたら、ヒラリヒラリと川の上を何かが飛び交っている。その数が一羽二羽どころじゃなくて、パット見、十羽はいる。

ツバメ?

と目を凝らすとコウモリだった。

今までも一、二羽なら時たま見かけていた。
橋の下にでもぶら下がって昼をやり過ごしているんだろう・・・と思っていた。
それにしても、今日は多い。しかも、それが一カ所じゃなく、行けども行けども、果てしなく川の上を飛び交っているのだ。
まるで孵化でもして一挙に大所帯になったみたいだ。

中学の時、部活が終わる夕暮れ時になると、広いグランドにどこかともなくコウモリがやってきていた。
靴投げ天気占いの要領で、頭上高く靴を蹴りあげると、コウモリは靴の動きにつられて、地面まで急降下してくる。しかし、靴が着地する寸前にヒラリと身を翻して、また一定の高さまで飛び上がる。動き自体には飽きてしまっても、なんとなくそれを繰り返していた覚えがある。面白いというより、飛ぶ生き物がこちらのアクションにアクションに対して、あそこまで反応することが不思議だったのだろう。

コウモリたちは、目が見えない。
超音波で物体を捕らえ、自由に空を飛んでるという。
あの飛び方を見れば分かる気がする。
ジグザグと早くなったり遅くなったり、小刻みに左右に揺れたり。その飛び方は何かを探っている動き。目が見えていれば、レーダーが効く一定の距離まで近づかなくても、黙視して障害物を交わすスムースな飛び方ができるはずだ。

しかし、彼らには目がない訳ではない。
あるけれど、見えないのだ。
でも、それは事故や病気で見えなくなったわけじゃなく

もういらない

と退化したもの。

機能を捨てる進化。

それを、退化と呼ぶのか進化と呼ぶのか、見る立場で変わってしまう刹那。

それにしても、見えてしまう目を持っていて、視力のない世界とは想像が付かない。目をつぶれば、見えなくなるが、それとも違うだろう。だって、生まれながらにして見えないんだもの。見えた記憶があれば、触った時に「あんなもんだったなー、たしか」と色まで想像できるだろう。しかし、生まれながらに見えなければ、赤とはどんな色なのかも分からない(逆に言えば色など意味がないから不要。そんな概念は元からありえないんだけど)。触った感覚で、それをどう認識するのか。ましてや、超音波というものを発して、物体を把握するという感覚は、現代人からしたら、もはやエスパー。

以前に、盲目の女性と食事をしたことがある。彼女は作家さんで、雨の降り出しから雨上がりまでの情景を音だけで見事に描いたお方。あの聴覚の力は驚いた覚えがある。

視力がなければ、他の感性が補おうとするのか。

友人の造形作家は、「手で触れられるものでなければ理解できない」と言っていた。

確かに、自分の生活の中で、見てるだけで理解したつもりになっている物があまりにも多い。

パソコンの情報なんて、その最たるものだろう。



という情報を文字化したり、映像化したもので見て

分かった気になっている。

人間には五感があるのに、目の前にあるものでさえ、

目=「これは、ネットで見たアレだ」

脳=了解

としてしまう。

それじゃアカンやん。寂しいやん。。。と思い、

川沿いに生えている桜並木の幹を一本一本触って歩いた。

すると、

硬さ柔らかさ、荒さ滑らかさ、湿り気乾き具合、丸さ角ばり具合、痛さ心地よさ

が一本一本違う・・・。

それを今まで全部まとめて

桜じゃん

で済ませてきた視覚と視覚による経験の思い込みの危うさに自分で驚いてしまった。

もし視覚がなければ、その手先の感覚はもっと繊細になるんだろう。触ることで情報を得ようとする意欲が、その感覚を研ぎ澄まされていくんだろう。

目が見えるまま、そっちも研ぎ澄ませたいな

と思ったり。

そんな人って、人と握手しただけで、いろんな事を感じるんだろうな。

形だけじゃなく、

感情、愛情、憎悪、悲しみ、好奇心、無関心、満腹感、空腹感、爽快感、不快感・・・

なんて、目じゃ見えにくいものまで。

そう考えると、科学の世界では否定されがちな、シャーマンとかイタコもあり得る気がしてくる。

便利は、ぼくらから人間本来の能力を退化させているのかもしれない。

縄文人のウホウホを取り戻したし。


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2009年5月18日 (月)

剣岳と白馬@『山と渓谷6月号』



今発売中の『山と渓谷6月号』は、来月公開の映画『剣岳 点の記』にちなんで、剣岳大特集。

その中で、主役の柴崎長次郎を演じた俳優の浅野忠信さんをインタビューした。この号では、控え目な分量になっているが、今月末発売の『ヤマケイJOY夏号』は更なる大特集で、別の角度からもう少しな長めのインタビュー記事が載る予定。
浅野さんとはスタジオでお会いしたが、やっぱりカッコよくて、気さくに話してくれた。映画も、オールロケで迫力あります。山に興味ある人は是非。

それとは別に、特別企画で去年白馬へ取材に行った、デジタル一眼レフでお花畑を撮る、ハウツー記事も掲載になった。

風景写真の第一線で白馬を撮っている写真家と一眼レフを初めて手にする女子大生に同行した面白企画。本文に、写真家のご指導に加え、女子大生の言い分も入れてみたので、かえって撮る側の気持ちが伝わり、そうすることで、気を付けるポイントが浮き彫りに出来た気がする。これからカメラで花を撮りたい方にはオススメです。

あー、剣岳行きたくなった。

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自然=究極の機能美



スクーターで池袋に出たついでに、年間パスポートを持っている六義園へ行ってきた。

こないだは枝垂れ桜が満開の凄い人ごみの時に行ったが、今日は入園者もまばらで、ゆっくり満喫状態。

そして、緑の多さにビックリ。

あの、気づかぬうちに鼻腔の奥まで忍び込んで、神経の芯の部分だけに浸透して脳まで来て、

「あれ、これは・・・?」

と考えてる間に、体中に広がって緑漬けになってしまう、あの緑様得意の忍び香にやられてしまった。

昨日、西武の九州物産展に行く時、地下1階の化粧品コーナーを通った時に匂った、鼻が曲がりそうな香水臭とは雲泥の、エロエロな心地いい香り。

ベンチに横になって、睡眠3時間の頭だから寝ちゃうかな・・・と思いつつ、空を見上げても、木の幹や葉が揺れる美しさと、ホバーリングする蜂さまの健気さに気をひかれて、かえって目が覚めてしまうアリサマ。

やっぱ自然は天才だ。

その形になんの無駄もなく、それでいて美しい。

究極の機能美。

日本の心の原点やねぇ。

六義園にもあちこちに大木があるが、これも、江戸時代に庭師が植えたもの。明治神宮もそうだけど、人が作った森は、どこか人間に優しくて心地いい(人間を拒むような猛々しい自然もかっこいいが)。

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2009年5月13日 (水)

奔放な発想と行動力に脱帽!壁画アニメ!!

MUTO a wall-painted animation by BLU from blu on Vimeo.

これを初めて見た時の衝撃は凄いものだった。

なんにも囚われない軽やかな発想が面白い。

普段から壁に絵を描いてた人なのだろうか?

壁画を描いて、カメラで一枚一枚撮ってつなげただけのシンプルだけど地道で根気のいる作業だ。

今度7月に出る絵本は、校正の段階に入ってるんだけど、最近、大きな絵を描きたくて仕方がない。襖絵とか壁画とか。はみ出したくてもなかなかはみ出せないくらい大きなものを描いてみたい。どっか、壁画募集してないかな?

塗料支給で(笑。

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15年ぶりリーマンの集い

この間、大学を出てから3年務めた会社の諸先輩とお酒を飲んだ(昼から!バイキングでした)。

15年ぶりに会う人がほとんどで「いったいみんなどうなってるんだ?」と興味津々で出かけた。

一番興味があったのが、一歳上の先輩。

自分に近い存在だっただけあって、その人が「もし、あのまま勤めていたら今どうなってるか」的興味だ。

そして、驚いたのが、先輩は、まるで昨日まで一緒に働いていたかと思うほど変わってなかったこと(俺も変わってないと言われたが・汗)。

でも、当時、平社員だった先輩は、現在、係長。

「海外に出た人たちの中には、課長になっている人もいるよ」
とのこと。

課長かぁ・・・。

会社を辞める時、「辞めるか、海外赴任試験を取るか」天秤に掛けていたから、想像しただけで、なんか笑ってしまう。

でも、同時に、それだけの時間が流れているんだなと実感。
(やめなきゃよかったとかは、全然思わないけど)

話は当然、企業内の誰がどこへ異動してとか、あの人に仕事のやりかたは・・・のような話に終始していた。そのリーマン的な音と空気がなつかしくて、面白かった。

みんな癖はあったけど、人間的にいい人ばかりだった。それは、奇跡的だといえるほどだったし、そこに生まれる独特の温かい空気から飛び出したくもなったのかもしれないなぁ。と思いつつ、フリーのワインを飲んでいた。


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歌舞伎者の素顔

GWは、前半、GW進行の押せ押せ校了でヒヤヒヤ。半ばには通っている農村歌舞伎のお祭りへ。後半は休み明け締め切りの原稿書きで頭グルグルだった。

そして、先週末は、お祭りのときにお願いしていた家族写真を撮りに再び埼玉の山合いへ。5組の家族を撮影させてもらった。

舞台や楽屋での表情とみなさん違って、お父さんだったり、子供だったり、奥さんだったり。

歌舞伎の”かぶく”の語源は、”傾(かぶ)く”で、”かぶ”は「頭」の古語表現で「頭を傾ける」という意味から、頭を傾けるような「普通じゃない人」という意味になったという。
だから、歌舞伎者は、変わり者、破天荒者の象徴。

梨園の人々を見れば、みんな自由奔放に生きて、マスコミのゴシップネタによく登場するのも頷ける。

酸いも甘いもタブーも「常識」なんていう目隠しを取っ払って鷲掴みにしてこそ、その下に隠れてしまった本音を体現できるというように。

でも、農村歌舞伎をしている人たちは、みんな普段は、歌舞伎をしていない人たちと同じように、社会一般的な仕事をして暮らしている。
日常は、そんなに常識外れな行動をしていない(たぶん)。
それでいて、”かぶき”という破天荒の「型」にはまることで、何をどうしようとしているのだろう?って最近思う。
それは、当然、村の祭りでしきたりでしなければならないものなんだけど、伝統とか社会学的なこととか「どーでもいいべ」って取っ払って、でも彼らが何をそこに見出して、半分は押し付けだとしても、何を得て、その代りに失っているものなんてあるか?ってなことも含めて、いまだにふしぎなんだな。

それでいて、みんなカッコいい。

もとい。

カッコいい人がたくさんいる。

最後にお邪魔した家で、最近「笑いっぱなし」の山から取れた山菜やうどんをご馳走してくれて、最終列車の時間まで話をしてくれた。

「オレ、こんな霞を食って生きてんだ・・・」

って、またカッちょエエこと言ってくださって、コノ!

その人は、社会的にはトラックの運ちゃんという姿を持っていて、奥さんと力を合わせて息子さんも娘さんも成人させている。

その上で、かぶいているのであります。

言葉にしてしまえば、それが自己解放の場なんだろうけど、そんなどうしようもないからスパークしちまうエナジーが同時に単なる「近所」を超えた仲間「若連」に紡いでいくっていう行為になっちゃっていて、とどの詰まりは「あなたのどこから来てるの?」か知りたくて仕方がない。

みんな、イケテル人たちは、感覚でやっているから、んなこと言葉で聴いても「気持ちいい!」とか「おもしろい!」とか「後のビールがうまい!」で終わっちゃうんだけどさ。

好きなことしか出来ない、社会性に欠ける、へなちょこな自分には出来ない芸当。

やっぱ、みんな大人なんだなぁ。と思ったり、
でも、それって、カブキか?なんて疑ってみたり。

不思議な魅力が尽きないのです。

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